坂本龍馬の伝説は【嘘だらけ】

加来 耕三さん(歴史家・作家)の記事より引用
※NOINDEX済み

今回は幕末の志士の一人、坂本龍馬を取り上げます。
小説やドラマにより、幕末維新の時期に大活躍したというイメージが広まっており、人気が高い人物です。しかし実際には、「その知名度ほどには日本史に影響を与えていなかった」と筆者の加来耕三氏は指摘します。創作の世界が生んだ“伝説”が独り歩きしている龍馬の実像に迫ります。

 「幕末に大活躍した」というイメージが世間に広まっている坂本龍馬。司馬遼太郎(しばりょうたろう/遼は、正しくはしんにょうの上部分が「 ゛」。以下同)の『竜馬がゆく』などの小説を読んで、「薩長同盟を締結できたのは龍馬がいたからだ」「大政奉還の立役者だった」と思い込んでいる方も多いかもしれません。
 しかし歴史学の観点に立つと、実態はぜんぜん違います。上記のような彼の業績とされるものは、あれもウソだ、これもウソだといった感じで、「ほとんど真実がない」と言っても言い過ぎではないでしょう。
 実際には、坂本龍馬は日本史にほとんど影響を与えなかった人物でした。もちろん司馬さんも、小説の主人公と歴史上の人物を区別して考えていました。
 龍馬ファンに人気がある高知県の坂本龍馬記念館においても、司馬さんは歴史上の人物の「龍馬」と小説の「竜馬」を区別していた、と書かれています。それでも同記念館の展示は、基本的に司馬遼太郎の龍馬観=“司馬史観”に寄っている印象があります。すなわち、多くの日本人がイメージする「龍馬」は「小説の世界の竜馬」と言えます。
 問題は、司馬遼太郎の作品の面白さに引っ張られてしまい、小説の内容が“史実”だと思っている人が多いことです。多くの人は小説に合わない歴史的な事実を受け入れず、跳ね返してしまいます。

 それでは、歴史上の坂本龍馬はどのような人物だったのでしょうか。小説において、「竜馬」が果たした価値、すなわち“司馬史観”では「薩長同盟の締結において中心的な役割を果たした」ことになっています。ほかにも、「大政奉還に貢献した」といった扱いもなされています。
 しかし、歴史学の世界でこれらは完全に否定されています。教科書からも龍馬の名は、あやうく消えるところでした。結局、ファンと称する方々が陳情を行うなどして、名前は残ることになりましたが、なぜ教科書から消えかけたのかが重要です。歴史学の見解として、坂本龍馬は日本史にさほど影響を与えなかったということになったからです。

薩長同盟の立役者は小松帯刀
 例えば、「薩長同盟」。龍馬は、憎み合っていた敵同士の薩摩と長州が手を組んだ薩長同盟において、実際には重要な役割は担っていないのです。
 いがみあっていた両藩の仲をとりもつために龍馬が奔走し、交渉が進まない中で「西郷さん、なんとかしてくれよ」と頼んで、西郷が「分かった」と応じるような場面が登場するのは小説の世界。しかしこれは、歴史学の視点からは完全に間違っています。そもそも西郷はあの当時、流刑地となっていた島から薩摩に戻ったばかりで、藩の決定権など、ありませんでした。
 実際には、薩摩藩の家老・小松帯刀(たてわき)が薩長同盟の締結において決定的な役割を果たしたと考えられています。小松の部下が西郷と大久保利通でした。
 薩長同盟を実現するカギだったのが、当時の薩摩藩の国父(藩主・忠義の父)、島津久光(ひさみつ)の賛同を取り付けること。小松帯刀は、どうやったら久光が納得してくれるか、落としどころを考えながら、時間をかけて薩長同盟を実現するための策を練っていたのです。
 大政奉還でも、龍馬は何もしていません。
 龍馬が書いたとされた「船中八策」(編集部注:平和的な大政奉還論を進言するために龍馬が起草したとされ、明治政府の基本方針である「五箇条の御誓文」につながったとされていた文)は、師の勝海舟や佐久間象山(しょうざん)、あるいは横井小楠(しょうなん)から教わったことを、まとめただけの話です。龍馬のオリジナリティーはどこにもありません。
 従って、風来坊だった龍馬が幕末の日本を動かして歴史を変えたかのように考えるのは、あまりにも無理があります。明治維新のみならず、日本の歴史全体に龍馬はたいした影響を与えていません。『竜馬がゆく』でつくられた物語は、あくまで司馬さんの創作の世界なのです。
 それでも龍馬に価値がなかったかというと、私はそうは思いません。むしろ創作の世界で人気が高まり、「間違った龍馬像が独り歩きした」ために、本来評価されるべき部分が評価されていないと感じています。
 歴史学においては、何をしたかではなく、何をしようとしたのかが重要です。龍馬について、むしろ目を向けなければいけないのは、彼が持っていた可能性と目指していた未来のほうだ、と私は考えています。

第三の道を目指した龍馬
 明治維新において、龍馬は「第三の道」を考えていました。
 当時は徳川家(旧幕府)を中心とした公武合体の新政府と、その対極に薩長を中心とする討幕的な新政府を目指す2大勢力がありました。しかし、世の中には別の道もある。第三の道として、中小藩などを含めたその他大勢の声なき声を代弁するというものです。
 薩摩・長州、幕府、その他大勢を含めて、みんなで全体的に物事を考える世界があってもいい。「万機公論に決すべし」という議会制民主主義のような世界です。それこそが、坂本龍馬がそもそも狙った世界だったように思います。
 龍馬は、第三の勢力を結集するために、“力”が必要だと考えていました。そのために日本で最初の商社兼私設海軍とされる「亀山社中」(のちの「土佐海援隊」)を設立し、艦船を集めて、貿易による利益などを得て、力を蓄えようとしていたのではないでしょうか。
 龍馬は米国からペリーが来航したときに、現場で黒船を見ていました。たった4隻だけで、日本がひっくり返りそうになった。その黒船を自分が持ち、私設海軍をつくることによって、いわゆる決定権、発言権というのを握ろうと考えた。その黒船を持つためのお金を稼ぐ役割を担わせようとしたのが、亀山社中だったのでしょう。
 亀山社中にお金を出したのは、先ほど言及した薩摩の小松帯刀です。
 龍馬は勝海舟の門下生となって参画した神戸海軍操練所が1865年に解散してしまい、土佐藩からも背信を疑われるような状況でした。そのような中で、神戸海軍操練所時代から温めていたプランを支援してくれる人物が現れた。だから坂本龍馬は「小松は神様だ」とまで言っているのです。実際に龍馬がそう書いた手紙があります。
 当時の薩摩は、薩英戦争に敗れて艦船を失い、壊滅的な打撃を受けていました。そこで海軍力を再興させるまでの間は、外人部隊を雇っておくか、ということで、龍馬と亀山社中を支援しようと考えたのでしょう。
 ところが龍馬は、亀山社中を始めていったんもうかったと思うと、せっかく手に入れた自らの商売に欠かせない虎の子の船を、操船技術が未熟だったこともあり、沈没させてしまいます。
 しかも薩長同盟が整って、亀山社中が薩長との間の商売を取り持つ必要もなくなりました。実は薩長同盟が締結されて、一番損をしたのが龍馬です。薩摩と長州にとって、龍馬と亀山社中が不要になったからです。
 「これからどうしようか」と途方にくれていた龍馬。その時に支援に乗り出したのが土佐藩の後藤象二郎(しょうじろう)です。
 土佐藩は当時、将軍だった徳川慶喜(よしのぶ)に近く、薩長が勝って体制がひっくり返ると大変なことになる。そこで土佐藩は(艦船を運用する亀山社中を率いる)龍馬を支援し、土佐海援隊ができました。それでも龍馬が目指したのは、あくまで私設海軍でした。しかしほかの藩と商売を広げ、私設海軍を整える前に、龍馬は暗殺されてしまうのです。

龍馬はなぜ殺されたのか
 晩年の龍馬はかわいそうでした。あくまで第三の道にこだわり、舌先三寸で自分をアピールしながら、活路を探っていました。第三の道として戦争を回避するような話し合いに、一生懸命になっていたようです。しかしどちらにもいい顔をするので、薩摩からも長州からも、さらに土佐からも敵ではないか、と疑われるようになってしまいます。
 その頃、薩長を中心とする討幕派は振り上げたこぶしをおろせなくなっていました。
 大政奉還が実現したものの、東日本は徳川家を支持する藩が多く、多数決なら慶喜が有利でした。薩長の武力による討幕ではなく、龍馬が考えていたような話し合いによる第三の道が実現すれば、まったく異なる形の明治維新になった可能性もあります。
 龍馬が誰に殺されたのか、はっきりしません。なぜ殺されなければならなかったのか。さまざまな説がありますが、明治維新の直前というタイミングであることに、私は注目しています。
 私は土佐藩の後藤象二郎が龍馬の暗殺に動いた可能性があると考えてきました。
 土佐藩の元藩主で最高権力者だった山内容堂(ようどう)は、土佐勤王党を弾圧し、皆殺しにしようとしました。実際にリーダーの武市半平太(たけちはんぺいた)ら主要メンバーは殺され、生き残っていたのは坂本龍馬と中岡慎太郎(しんたろう)くらいでした。(大政奉還がなって)もう龍馬は不要と考えた可能性があります。
 龍馬から学ぶべき点は、第三の道にこだわり続けて、あくまで戦争を回避して、話し合いで物事を解決しようということに一生懸命になっていたことです。龍馬がオリジナルで考えた世界がどういうもので、本当にその世界が成立したらどうだったのか。明治維新で何が起きる可能性があったのかを考えるべきだと思います。歴史に学ぶためには小説の世界ばかりを追いかけてはいけません。

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